この休日でしたが、部屋の片隅に「危機の宰相」と言う本が積んであるのを見つけました。沢木耕太郎さんの書かれた本で、どうも読まずに放っておいてあったらしいので、休みを利用して読むことにしました。
沢木耕太郎さんといえば、本のヒット・ドラマによって世代を超えて読み手を惹きつけた「深夜特急」が有名で、多くの方はこの作品と結びついてその名を知っているのではないかと思います。そして、おそらく漠然と、旅とスポーツが得手のルポライターやジャーナリストとしての側面を思い描くかもしれません。しかし、この本は、1960年代前半に首相を務めた「池田勇人」と主たる政策「所得倍増」について、その所得倍増計画が如何にして・池田勇人を中心とした、どのような人物によって出来上がっていったのかを追っていく、ドキュメンタリー調の内容です。
内容を追ってみると、池田をはじめ、そのブレーンとして存在した男達の来歴やエピソードを描くことにかなりの稿が費やされ、池田勇人その人・宏池会を切り盛りした田村敏雄・経済学者の下村治の三人を、「出世レースにうまく乗れなかった“敗者”」として位置付けています。その後には、奇しくも「三人の敗者」が邂逅することで所得倍増計画が生まれ、それを掲げる池田総理が誕生する過程が描かれてゆきます。所得が増える=企業負担が増えることを嫌う財界からの反発(※今も昔も変わりませんね)や、官僚の安定志向によって生理的にも受け容れられなかった「所得倍増」。その鬼門をスローガンにした経済成長政策によって日本の高度経済成長が始まり、それが国民にとっても「当たり前」になっていく時代。「危機の宰相」は、沢木耕太郎さんの緻密な取材と、その膨大な材料を整理する能力によって、主題の背景である当時の日本経済全体の姿をも描き出しています。
ざっとこんな感じなので、政治経済や内容に興味のある方は実際に読んでいただくとして、2つほど不思議に思った事がありました。ひとつは「随分と若い文章だな?」と思ったこと、もう一つは、途中に見え隠れする作者(沢木)の考えや疑問が披見される度に「古臭い・違和感がある」と感じたことでした。最も、この疑問は本文の読了後に氷解しました。手元にあるこの本の刊行は2006年、当然その前年くらいに書かれているだろうと思っていたのですが、初出は文藝春秋に1977年に掲載された文章だったのです。文章の中に「熱気・熱に浮かされたような」若さを感じたのは、沢木耕太郎さんが30歳という若い時期に書かれた文章であるからだろう事、加えて、雑誌の掲載時に一ヶ月半という非常に短い期間で二百五十枚もの原稿を書いたという、熱中と勢いがあったであろうこと。そして古臭いのは、1977年時点の日本経済観と今の経済観なら、とてつもなく大きな隔たりがあって当然だからです。
ところで、「危機の宰相」の冒頭と末尾は、下村治へのインタビュー内容になっています(※沢木耕太郎さんの構成力が光っています)。池田首相当時に「高度経済成長」を持論としていた下村が、このインタビュー時には既に「日本経済のゼロ成長」を基調とした見方を持っていたことが書かれています。下村は経済成長=適正な価格で手に入る原油が必須であるという認識を持っていました。高度経済成長下の産業発展を見ていれば、当然と言えます。これは当時に限らず、今だってそうですね。それが、オイルショックによってどうなるかわからなくなってしまったことも、ゼロ成長論の論拠にあるようでした。
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本を読み終えて、その時点から現在までの経済を見てみると、1980年代後半から90年代始めの「バブル景気」は、プラザ合意から始まる為替と土地投機による金融経済が主導の景気加速でした。その後、失われた十年を経て現在があります。このあたりから、経済は、実体経済よりもむしろ金融経済が大きな影響を与えるようになっています。また、1960年代当時は「安定雇用」が経済政策上の大命題でしたが、それも就職氷河期・派遣雇用に代表されるように、現在の実相は不安定です。国民は変わらず熱やブームに浮かされやすい(※もちろん、持ち上げるのも地面に叩きつけるのもその時々)ですが、その時その時を凌いでいかなくてはならない。
もし現在、「所得倍増論」を唱える政治家がいたら、きっとみんなが腹を抱えて笑うでしょう。給料2倍で物価は5倍ですか(笑)とか、ハイパーインフレで通貨危機(笑)など、誰もが想像できると思います。多くの人・取りわけ30代の若い世代の認識は、所得の向上に寄与すると思いきや実態は企業都合の成果主義にうんざりしている筈で、むしろ安定を志向しているのではないかと思えますし、日本国のシステム下で生活している以上、「自己責任」で突き放されてしまうことには、大きな不安があると思います。
また、金融のグローバル化が亢進したことで、投機によって各国の経済が左右される状況にもなりました。今の原油価格は1バーレルあたり$140近くまで高騰しています。下村がオイルショックを経て1970?80年代に考えていたよりも、複雑で広範囲にわたる要素が経済に影響している現在、政府による経済政策の策定はもとより、企業経営も相当に頭を絞らなくてはならないし、なにより仕事をしたり生活をする我々が物価や家計を浮かれて考えているわけにならなくなっています。それでも、働く人や居酒屋で飲んでいる人、色々な人を見ると頑張っているしタフだなと思います(もちろん楽な時代ではないですから楽観的ではなく、民衆っていつの時代もやっぱり一番強いのかもしれないという思いです)。
下村治が予見していたゼロ成長に近い現在ですが、下村が考えもしなかった景気の上昇と下降の時代を経て、下村が考えもしなかったファクターが経済に入り込んできています。経済は生き物で、条件や状況にあわせて動いていくものですから、2008年の現在こそ、この稿で取り上げた「危機の宰相」は、一読の価値があると思います。経済学の本ではありませんから、「深夜特急」を知っている方なら、構えずに読んでみてはいかがでしょうか(※長いこと放ったらかして読んでなかった私が言うのも変ですけどね)。